涙はこころの処方箋
大人になって、涙を流す機会が増えたように思う。
社会の厳しさを知って辛くなったのか悲しくなったのか、寧ろ学生時代よりも弱くなってしまったような気がする。
twitterでバズっていたツイートだが、皆「逃げたい」という気持ちがあるのだろう。けれど、少しくらい辛くても逃げてはいけない、
折角『良い』会社に入ったのだから、
正社員になれたのだから、
辞めても次がないのだから。
そうやって、仕事=お金のなくなる恐怖におびえて、日々暮らしている。
私が好きな本に、
「……そうだったのか。君は50ドルをもらうために働いていたのか。
私は、10年前も今も、この鉄道会社のために、そして、世の中の人に快適な
旅をしてもらうために働いているんだ」
▶「あなたの人生が変わる奇跡の授業」(比田井和孝・美恵)
というセリフがある。
これは社長になった男が、元作業員の仲間に「10年前は一緒に、50ドルの日給をもらうために働いていたのにね。きみも変わったね」といわれ、返した言葉である。
元々10年前は日給50ドルで働く作業員だったが、片や社長、片や作業員のまま。
心の持ちようで、それだけ差が開いてしまったという話で、私は何となく、お金のために働くことの虚しさのようなものを感じた。
50ドルのために働いていたら、本当に50ドルしかもらえない人生になってしまうのだ。
耳が痛い話だと思ったが、なかなか、痛烈に、お金のためではなくて、世のため人のために働く方が、少なくとも気持ちは惨めにならないような気がした。50ドルのために働いていたら、50ドルの仕事しかしないのだ。
「仕事=お金のなくなる恐怖におびえて、日々暮らしている。」
今の社会は、たぶんこうなのだ。全員が全員こうではないが、世のため人のために働くなんて堂々と言える人は、きっとあまりいないだろう。
だから、何だか殺伐としていて、通勤電車にも負のオーラが漂っているのではないかとさえ思う。
肩が触れただけで苛立つような、そんな恐ろしい『何か』があるように思う。
最近、私は無職なので通勤電車に乗っていないが、満員電車の息苦しさは、生命力とか胆力とか、そういうものを根こそぎ奪っていくような感覚がある。
慣れてしまえば、心を閉じるのは簡単かもしれない。
ただ、もし皆がお金のためではなく、自分の仕事で助かる『誰か』のことを思い、誇りを持って働ければ、もう少しだけ、社会は明るくなるような気がした。
私もきっと、嫌いな会社のためではなくて、それを使う『誰か』や社会のためだと思って働ければ、もう少し、明るい気持ちで働けたかもしれない、
と思う。
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ところで、言葉について、私はとある発見をした。
言葉というのは、殺傷力があるものだ。
一言で傷つきもすれば、嬉しくもなる。私はつい最近、とある言葉に傷ついた。
「だからなに?」
たった五文字。ただたった五文字の言葉で、私の涙腺が歪んだ。言葉は凶器だ。殴らずとも人を殴れる。しかも殴る側は痛くもかゆくもないし、傷つけたことにも気づかない。
言い方もそうだ。低い声で面倒くさそうに言う。それだけで、思っていたような反応とは真逆の反応をもらった私の心は揺らぎ、過去に言われたあんなことやこんなことまで、思い出す。
相手が誰であろうと、この五文字は、そこその殺傷力がある。
これを読んだ皆さんは、言葉の殺傷力について、今しがた考えてもらいたいと、切に願う。
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お読みいただき、ありがとうございました。
敬語だったり「だで・ある調」だったりしますが、どちらも好きなので、気分によって変わる人です。